人的資本の最大化に向けた副業の意義(前編)

一橋大学
CFO教育研究センター長/名誉教授/商学博士 伊藤 邦雄

企業価値はこれまでの財務状況に加え、経営戦略とその実行力に直結する非財務情報である「人的資本」に注目が集まっています。この人的資本を重要な経営マターと捉え企業価値向上を目指す「人的資本経営」の提唱者であり、経済産業省・金融庁がオブザーバーとして参加する「人的資本経営コンソーシアム」の会長を務めるのが伊藤 邦雄氏です。今回は伊藤氏をお招きし「人的資本の最大化に向けた副業の意義」をテーマに、日本企業に求められる人的資本経営や、現代の企業が人的資本経営を進めるにあたっての課題、越境学習や副業解禁が秘める人材育成のポテンシャルについて伺いました。

本記事は前編です。

後編は以下よりご覧いただけます。
【人的資本の最大化に向けた副業の意義(後編)】

人材戦略を人事マターから経営マターへ

大里:本日は3つのテーマをご用意しておりますが、まずはテーマ1の「日本企業に求められる人的資本経営」について、伊藤先生よりお話しいただけますでしょうか?

伊藤:はい。私が人的資本経営を進めるにあたって、驚いたデータが二つあります。一つは、パーソル総合研究所が行ったグローバル調査において「日本の企業人が一番学習してない」というデータ(※1)です。もう一つは、従業員のエンゲージメント調査において、日本が2024年も世界最低位だったというデータ(※2)です。日本人は自己肯定感が低いといわれていますが、それにしても低すぎる。毎年のように世界最低位になるのはなぜなのだろうかと、長らく引っかかっていました。何かトランスフォーメーションを起こしたいということで、その想いが人材版伊藤レポートにも結びついているわけです。

※1 「グローバル就業実態・成長意識調査(2022年)」(パーソル総合研究所)
※2 「グローバルワークプレイスの現状2024年版」(米国 ギャラップ社)

さまざまな問題意識がありますが、やはり皆さん、自分のキャリアを会社に委ねすぎていると思います。日本の企業はメンバーシップ型といわれていて、一度入社してメンバーになれば解雇はされません。一方で、人事異動も含めて会社の命に従わなければならず、拒否すればクビになるかもしれないという強迫観念があるでしょう。中にはジョブポスティング制度(社内公募制度)を設けている企業もありますが「申告しても叶えられたことはない」という人が多いんです。

そんな企業組織の中に長年いるとどうなるか。「個の確立」が難しくなっていきます。個を確立して自分自身を強く持とうとすると、どうしてもぶつかることが多くなってしまいます。そのため「自分のキャリアは自分で決める」なんて言わずに、異動を受け入れてその中で頑張るというように自分自身の中で解決するようになってしまう。そうやって、長らくやってきたのが日本の企業です。それも含めて、私は変えたいと思っています。

以前私は『コーポレートブランド経営』という本を書いていますが、これはコーポレートブランディングというものを経営の視点からもっと取り入れる必要があると意識して書いたものでした。同じように、人材戦略も人事のマターから経営のマターに変えていきたい。そう強く意識して、人的資本経営と名付けています。

これまで40年に亘って企業内研修を行い、人事部門の方ともたくさん話していく中で、企業の実態は把握してきました。ただ、人事の方々と人事の観点だけで議論していると、どうしても閉じた内容になってしまいます。人的資本経営を推進させるには資本市場の力も借りたいし、投資家の力も借りたい。経済産業省の人的資本経営コンソーシアムのメンバーに投資家も入ってもらったのはそれが理由です。

人事部門の本来のパーパスを自問し、人事改革に取り組む

伊藤:現在、人的資本・人的資本経営という言葉は広く知られるようになりましたが、中身が追い付いていないように感じています。経営者の方と話していると「人材が大事」「社員が大事」と言いながら、個々の能力ではなく数で見ていることは少なくありません。数で見てしまうと、効率思考になって「ここは人が多いから減らしなさい」という話になってしまいます。人材版伊藤レポートを読んでくださった経営者の中には「それではいけないと痛感しました」という方もいて、経営層の考え方もだいぶ変わってきているとは思いますが、一方で人的資本経営を「やっている」いう人事の方に「“やれている感”はありますか」と聞くと「ない」と答える方が多いんですよね。これはなぜでしょう。

鏑木:人材版伊藤レポートを読んで人的資本経営を当社も取り入れなければと思っても、“人”とあるために「人事部が進めなさい」と言われてしまい、結果推進できずに止まっている、というのはよく伺いますね。

伊藤:なるほど。人材版伊藤レポートを公表させていただいてから、人事部門長の方に「社長とのコミュニケーション頻度は高くなりましたか」とよく質問します。すると「すごく高くなりました」という会社と「それほど変わりません」という会社があるんですよ。それほど頻度が変わらないという会社は、まだ社長の胸に火がついてないと思うんですよね。火がつけば、当然対話の頻度は高くなりますし、人事部門に丸投げしなくなるはずです。そういう意味では、どのくらい社長と人事部門の長が対話をしているかは、一つのリトマス試験紙になると思いますね。

鏑木:大体何割ぐらいの企業ができているでしょうか。

伊藤:全体の何割かまではわかりませんが、頻度が高くなった会社では、毎週だといいます。それまでは人事異動の季節に対話する程度で、四半期に一度か半年に一度、ひょっとしたら1年に一度程度だったかもしれません。それから比べれば、毎週コミュニケーションするようになったのは大きな進歩だと思います。しかしあくまでそれは顕著な変化が見られたケースで、やはり1ヶ月に一度とかが多いでしょうか。鏑木さんの印象はどうですか?

鏑木:1ヶ月に一度、四半期に一度ぐらいがやはり多いかなと思います。部門責任者と話すことは割とあるようですが、社長あるいは経営幹部の方と定期的にセッションするという企業は、あまり多くないですね。

伊藤:最近面白い現象だなと思うのは、まったく人事の経験がない人が人事部長に任命される、たとえば営業から人事部長になるというケースです。あれはどんな意味があるのだろうと考えてみると、従来の人事部門の延長では会社を変えられないために、むしろ白地のキャンパスに絵を描くぐらいのつもりで、先入観のないインフルエンシャルな人を人事部長にしようと、おそらくそういう社長の思いがあるように感じます。

鏑木:多いですよね。人事畑じゃない方が異動されて着任して、しかしその方もまた「どうしたらいいのか」と悩まれるケースも少なくありません。それはそれで止まりがちになるようです。

伊藤:そうですよね。ではずっと人事にいる方では駄目なのかといったらそんなことはないわけです。今大事なのは「人事部門の本来のパーパスとは何だろう」ということを自問すること。そうしないと従来の延長になり、調整型人事になってしまいます。調整型では時間も人もいくらあっても足りません。調整型にはピリオドを打つということが必要で、すでに気がついている企業は、人事評価を人事部に集めるところから現場側に移譲し始めています。今、本当に変革をやろうと思ったら「人事は本来何をやるべきか」という自問をして、自ら答えを出して、人事評価は現場側やってもらうべきです。そうしている企業はよい傾向じゃないかと思いますね。

戦略と可視化された人材データをマッチングし、戦略の実現可能性を高める

伊藤:人材版伊藤レポートの中で一番力点を置いたのはどこかといえば、経営戦略と人材戦略の連動です。多くの経営者は、先ほど言ったように数で人を見る傾向にあるため、それぞれの社員のスキルや経験値をきちんと見られていないんです。そうした中で、たとえばあるプロジェクトでよい成果を残すと「○○さんは優秀だ」とラベルが貼られますが、一度「優秀」のラベルが貼られると、また別のプロジェクトでもその人が呼ばれるんです。そうすると、せっかく能力がある人がいても、複数のプロジェクトを兼務させることで疲れさせてしまうわけです。そもそも優秀かそうでないかという区分けも私は不自然だと思いますし、人的資本経営とは合わないと思いますね。

では、スキルや経験値をどのように把握するかということですが、皆さんはご自身のスキルや経験値などの属性を何項目挙げられますか?

鏑木:属性とは、たとえばどういうものですか?

伊藤:何でもいいですよ。趣味でも、たとえばマーケティングスキルといった業務に関するものでも構いません。いくつ挙げられるか考えてみてください。

ある会社では1人当たり250だそうです。「そのぐらい把握しないと経営戦略とのマッチングができなくなる」とその社長は言っていました。私は250が正解だと言いたいわけではありません。ただ、それだけ一人ひとりの知や経験は多様なんですよね。その多様な知や経験を、やはりある程度可視化する必要があって、それを丁寧にやっていくと50にも100になるかもしれない。

経営戦略と人材のマッチングは正直当たり前のことです。それでもその内容が人材版伊藤レポートに出てくるのは、それだけできていない企業が多いということでもあります。

鏑木:人材の把握の仕方が「営業職」「マーケティング職」「人事職」というように職能レベルになっていて、ジョブに分解しきれていないために自分にタグをつけられない状況ですよね。その部分が課題かなと思います。

伊藤:そうですよね。皆さんの会社でも経営戦略があって、それを構成する事業戦略がありますよね。たとえばA事業にはどんな資質、スキルを持った人材が必要か定義できていますか? 「何人ぐらいほしい」というのはあるんですよ。でもそれはまさにヘッドカウントです。果たしてそれで事業戦略の実現可能性を高められるでしょうか。

開示が始まった人的資本情報に、投資家が強い関心を持っています。なぜかというと、戦略だけを見てもあまり意味がないためです。大事なのは戦略の実現可能性。本当に実行できるのかどうか、投資家が見ているのはそこなんです。

そうすると大事になってくるのは、実現可能な人材を事業と正しくマッチングできるかどうかです。まず、その事業にどのようなスキルや経験値が必要なのかという資質要件の定義すること、そしてスキルや経験が可視化された人材データがあること。その上でマッチングを図るということがとても必要だと思います。

鏑木:さまざまなお客様とお話をする中でも、「自社の人材のポートフォリオの整理ができてない」という声はよく聞かれます。できていても「職能×ヘッドカウント」、あとは経験年数とマネジメントかどうかぐらいの切り方でしか整理ができていないため、「自社にどのような人がどれくらいいるのかわからない」という企業も割と多い気がしますね。

伊藤:人的資本経営コンソーシアムにも関わっているとある大手企業では、人材の可視化・データ化の次のステップとして、事業と人材のマッチングのアルゴリズムを作りつつあります。事業とスキル・経験を可視化した人材をマッチングしても、実際にプロジェクトが動き出してみたらうまくいかないこともあるわけです。ではどういうマッチングならうまくいくのか? そのアルゴリズムを導き出そうとしているんです。これができたらすごいです。本当に独自性のある人事戦略、無形資産を手に入れることになると思います。

後編は以下よりご覧いただけます。
【人的資本の最大化に向けた副業の意義(後編)】

この記事が気に入ったら「シェア」

RECOMMENDED