人的資本の最大化に向けた副業の意義(後編)

一橋大学
CFO教育研究センター長/名誉教授/商学博士 伊藤 邦雄

企業価値はこれまでの財務状況に加え、経営戦略とその実行力に直結する非財務情報である「人的資本」に注目が集まっています。この人的資本を重要な経営マターと捉え企業価値向上を目指す「人的資本経営」の提唱者であり、経済産業省・金融庁がオブザーバーとして参加する「人的資本経営コンソーシアム」の会長を務めるのが伊藤 邦雄氏です。今回は伊藤氏をお招きし「人的資本の最大化に向けた副業の意義」をテーマに、日本企業に求められる人的資本経営や、現代の企業が人的資本経営を進めるにあたっての課題、越境学習や副業解禁が秘める人材育成のポテンシャルについて伺いました。

本記事は後編です。

前編は以下よりご覧いただけます。
【人的資本の最大化に向けた副業の意義(前編)】

スキルの流動化のために必要なのは、社会共通のモノサシ

鏑木:先ほどのスキルの可視化について、社会全体で共通のモノサシ化が進んでいく必要があると考えています。たとえば営業ができる人といったときに、現状はA社で「できる」といわれる水準と、B社で「できる」といわれる水準がまったく違う。これでは、スキルの流動性は進まないのではないでしょうか?

伊藤:難しいテーマですよね。その課題に一生懸命取り組んでいるのがシンガポールです。企業内の問題と国全体の問題は、実は規模が違うだけで同じなんです。企業内では「この事業戦略にマッチングできる人材がどのぐらいいるか」を考えますよね。国も同様で「成長分野として今後○○という事業を伸ばしていきます」といったときに、担う人材がいなければ話になりませんから、国全体でもスキルを可視化する必要が出てきます。もちろん、企業と国とでは規模が異なりますが、スキルを可視化する共通の基準が必要という意味では同じなんです。

鏑木:やはり企業の課題感もその辺りにあると思っています。「人材ポートフォリオを整理しなきゃいけない」「自社の人的資本について可視化を進めなきゃいけない」と感じていますし、手を打っています。ただ、実際に事業戦略と接続をしようとすると、足りないピースが出てくる。これを外部から獲得しなければいけないのですが、社内言語化しているスキルと、外部で表現されている基準が違うので、どう獲得したらよいかわからずにいるように感じます。

伊藤:それはおそらく、ジョブ型雇用がもっと浸透することで、一部は解消、緩和されると思いますね。近々内閣府から「ジョブ型人事指針」というものが発表されます。私も委員の一人として関わっていますが、これはジョブ型人事制度を導入した日本企業20社に、その中身を徹底的にヒアリングしてまとめたものです。これを見ると、一口にジョブ型人事制度といってもいろいろなバリエーションがあることがわかります。企業によってヒストリーも業種も違うでしょうから、一つの枠にはめこむのではなく、それぞれの会社に合うようにジョブ型人事制度を取り入れてもらうよう促したいわけですね。「ジョブ型人事方針」の発表を機に、ジョブ型人事制度がもう少し進んでいけば、会社間移動が進んでいくはずです。会社間移動が進んでくると、おのずとスキルが会社間移動に耐えられるようになっていくと私は思っています。

鏑木:スキルが循環していく、まわり始めるということですね。

伊藤:そうですね。今まで日本では、内部労働市場と外部労働市場に隔たりがあったわけです。それをシームレスに繋いでいかないといけないですよね。日本企業も社会も、二分法が好きな傾向にあります。会社に入ると「この人たちは“内”」「この人たちは“外”の人」っていう空気があったでしょう。しかしそうではなくて、もっと行き来するべきだと思います。やはり人の新陳代謝は大事だし、それぞれの社員の皆さんも、ご自身の知や経験を新陳代謝する必要があると思います。

鏑木:そうだと思います。しかし現状はなかなかそういう環境が少ないですよね。だからこそ、越境学習や副業というところから、アプローチをしていく必要があるように思います。

越境して得た刺激と学びが、本業へと活かされていく

大里:今、各社の経営陣は中長期的に人的資産経営に取り組んでいますが、一方で、従業員は日々キャリアについて悩みを抱えています。人事部門としては、中長期的な視点とは別に、今すぐ何か手を打ちたいという方も多いようですが、今話題に上がった越境学習や副業をどのように捉えたらよいでしょうか。

伊藤:これは話を合わせるわけではありませんが、私自身がこの1年ぐらい講演の中で最も頻度高く使った言葉の一つが「越境」です。先ほど申し上げた二分法を乗り越えるには、バウンダリー(境界)を越えていかなければなりませんが、それには二つの方法があります。一つは、境界を溶かす、低くすること。もう一つは、勇気を出して境界を乗り越えること。いずれかをやらないと、二分法のトラップから逃れられないと思うんです。

鏑木:溶かす、低くするというのは、どういうことでしょう。

伊藤:壁を低くして、出やすくする、入りやすくするということですね。たとえば企業内でも、もう少し人の異動を活発にするとよいと思います。ある部門だけにずっといるのではなくて、ジョブポスティング制度を活用して異動する方法もあります。副業もその一つで、会社間の壁を乗り越えていく手段です。

私が好んで使っている言葉に「Far Analogy」があります。ビル・キャンベルという、アメリカ・シリコンバレーの企業のエグゼグティブコーチだった人の言葉で、日本語にすると、farは遠い、analogyは類推となるでしょうか。今自分が重視しているビジネスがあるとしたら、そこからすごく遠そうな分野にも関心を持って学ぶ。そしてそれをヒントにイノベーションの発想を得て吸収する。それができる人がこれからのリーダーだと彼は言っています。これは越境そのものだと思います。人材版伊藤レポートでも、5つの共通要素の一つに「知・経験のダイバーシティ&インクルージョン」を挙げていますが、それぞれがもっている知・経験はみんな違うはずなのに、同じ会社にいると固定化してしまいます。だからこそ越境して他社に行って、刺激を受けて、学んで、その知識をまた本業に活かす。そういうこともあってもいいと思うんですよね。

鏑木:実際に伊藤先生から見られて、越境学習、副業促進は進んでいると感じられますか?

伊藤:皆さんもご存知だと思いますが、ソニーグループと日立製作所で相互副業が始まりましたよね。実はこの2社のCHROは、人的資本経営コンソーシアムの企画員を務めています。私も会長をやらせていただいているので「人的資本経営コンソーシアム発」と言いたいところですが、この相互副業がすごいなと思ったのは、最初に相互副業の話が持ち上がったときには分野はまだ決まっていなかったんです。しかし蓋を開けてみたら、研究開発、まさに事業のど真ん中の領域における相互副業になりました。これには両CHROも驚いていました。

鏑木:狙っていたわけではなくて、ということですか?

伊藤:おそらく希望者が多かったのでしょう。たとえばソニーからすると日立のメタバースやAIのことをもっと知りたい、日立からするとソニーの半導体技術をもっと学びたい。おそらくそうした強い希望があったのだろうと思いますね。本来、企業としてはR&Dのところはあまり他社に触れてほしくないところですよね。

鏑木:見られてしまうことにちょっと抵抗のある領域ですね。

伊藤:でも、その一番抵抗のあるところから始まったわけです。これはやはりソニーも日立製作所も、相互副業の意義を強く認識していたからだと思います。

鏑木:いわゆる副業解禁というと、自社社員に「自由にどうぞ副業してください」となりますよね。ただこの方法では企業として明確な狙いを持ってやることは難しいと思うんです。一方でソニーさん、日立製作所さんの相互副業という座組は、狙いを明確にし、かつコントロールできるような環境でやっていくところに意味があるということでしょうか。

伊藤:そうですね。一方通行だとやはりうまくいかないのではないかと思います。こちらは副業で送り出したい、だけど受け入れ先から「うちはまだ間に合っています」って言われてしまうと、送り出された人は困ってしまうじゃないですか。相互副業のほうがうまくいくと思いますね。

自由に越境できる、組織と社会の重要性

鏑木:我々も今さまざまなサービス提供させていただいていますが、副業をしたいという個人の方、あるいは自社の社員に越境学習やリスキリングさせたいと考える企業の担当者の話はよく聞きます。しかし、外部の人材を受け入れたいという話は、あまり聞かないですね。

伊藤:なぜ、活用する側・受け入れ側が少ないんでしょうね。

鏑木:「活かし方がわからない」「イメージができない」という話はよく聞きます。

伊藤:新しい事業をやるとすれば、その会社にとって新しくて馴染みのないスキルを持った人に来てもらったほうがよいですよね。にもかかわらず、なぜ受け入れたいという企業が少ないのでしょう。

鏑木:5割を超える企業が副業を解禁していますが、副業者を受け入れている企業はまだ少なくて、2割ほどです。

伊藤:先ほど申し上げたように、自社の新しい事業について必要なスキルや要件をあまりクリアにできていないために、こういう人に来てほしいという発信がうまくできていないのかもしれませんね。

鏑木:それはあると思います。まさにジョブを定義するということですよね。どんな人に何を任せたいのか、このあたりが従来の人材活用の方法と違いすぎるので、オーダーの仕方がわからないというのも大きいのかなと思いました。

伊藤:こうした取り組みはまだ始まったばかりですが、今、中小企業の経営者も強く問題意識を持っていますよね。そもそも人を採用できない、採用するにもコストがかかってしまう状況であっても、自社にないスキルを持った人材は必要になります。ですから、ベンチャー企業や中小企業にとっても、求めるスキルを持つ人に副業で来てもらうことはとても大事だと思うんです。企業規模の違う副業、たとえば受け入れ側は中小企業、送り出し側は大企業という組み合わせがあってもいいと思いますね。

鏑木:そうですね。自治体なども巻き込んで地域全体で取り組んでいくというのも一つ大きなテーマなのかなと思います。

伊藤:副業解禁といいますが、日本の企業で副業というと「本来の業務があるだろう」って言われそうですよね。

大里:送り出す企業からは「本業に注力してほしい」「退職が怖い」という声があがっています。

伊藤:退職リスクを考えるのは、自分の会社に対する魅力を感じてないからですよね。副業をして、新しい刺激を受けて戻ってきてもらう。そして本業で続けてもらうためには、自社にさまざまな魅力がなければ続きません。

鏑木:実際、副業をしている方のほうが退職率が低いというデータもあるんですよね。

伊藤:副業で他社にいくと、自分の会社を外から客観視できるようになるじゃないですか。自分の会社にだけ留まっていると、どうしても会社の中のフラストレーションを感じる部分にばかり目がいってしまいますが、外に出て客観視してみると、「あれ?うちの会社も結構いいとこあるじゃないか」と思えることもあるかもしれない。そのように新しい発想を得ると、とてもよいと思いますね。

鏑木:そうですね。そのためにも積極的に機会を作っていく、企業の理解も必要になると思いますね。

伊藤:私が最近考えているのが「ゆるい組織の重要性」です。たとえば土日にボランティアに参加していることが会社に知られると「そんなに余裕があるのなら、もっと本業に注力して」と新たに業務を押し付けられるという笑えない話も聞かれます。そうではなくて、必要なのは就業規則で縛らない、ゆるい組織であると。例に挙げた土日のボランティアも就業規則に縛られるものではないですし、会社の中であっても、さまざまな部門の人と集まる機会があればちょっとした越境体験が生まれます。このように従来のフォーマリティからいかに解放してあげるかというのが、とても大事だと思いますね。

鏑木:なかなかそういう機会もまだ多いとは言えないですね。社内副業という話もよく出るのですが、副業も外だけではなくて社内でもできるようになるといいと思いますね。

大里:伊藤先生、さまざまな観点からお話しいただきありがとうございました。

前編は以下よりご覧いただけます。
【人的資本の最大化に向けた副業の意義(前編)】

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